♯8 自己の探求2019-12-17
<日曜コラムに続きます>
自身の留学時代、1979年、9月にサンフランシスコの対岸、ゴールデンゲートブリッジを越えたマリン郡にあるCollege of Marinで専攻をコミュニケーションから人文学に変えたところからの続きです。
留学といういわば今までに経験したことがない環境で自分が追い込まれると自ずとそこでの生活をどうにかしようと必死に考えるものです。今まで、私が39年間、留学コンサルタントとしてやってこられたのも、自らの留学経験という基本があったことが大きな要素になっていたと思います。
大学入学当初、授業が解らないということに対して、私は授業をテープに取り聞き返すという学生としての生き残り作戦を展開しました。
その経験をして、10代前半の若者たちも、自ら経験したことのない環境でどうにか生き残るために、無意識に知恵を絞るということを認識するに至りました。私のところに来る親子は、おおかれ少なかれ留学について不安を抱いています。それを自分の経験をもって払拭することがコンサルタントとして生き残れた大きな要素でしょう。
それを私は生きる力と呼んでいます。
それぞれの生徒は、究極の環境でなすすべもなく尻尾を巻いて逃げ出すなどと考えたことは一度もありません。生き残りをかけるからこそ、10代の留学は価値があると私は信じています。
自身の留学で学んだアメリカでの教育常識は、ボーディングスクール留学とかなりの共通点が見られました。
第一に成績のつけ方です。大学生活は3セメスター(1年半)と長くはありませんでしたが、アメリカでは、A、B、C、D、Fという5段階の成績評価が一般的です。日本の評価に直せば、Aが5、Fが1です。しかしながら、日本の中等教育と違って、アメリカでは小学校から大学まで絶対評価です。すなわち、クラスの全員がAであってもいいのです。ゆえに、平均点としては、CではなくBであり、Aを取れて当たり前で、Cは日本的に言えば2であり好ましくない成績です。
また、成績を決める要素も中間試験、期末試験が定着してはいなく、授業への取り組み、課題の出来具合も総合的に加味されることも学びました。
英語力で大いにハンディがあり授業を録音して、試験に臨むときには、何度も聞き返すという私の努力を、教授たちが評価してくれたからこそ、私はアメリカの大学で生き残れました。
私の生きる力を教授たちは認めてくれたと思っています。
その精神は、ボーディングスクールでも全く変わりません。
つづく
自身の留学時代、1979年、9月にサンフランシスコの対岸、ゴールデンゲートブリッジを越えたマリン郡にあるCollege of Marinで専攻をコミュニケーションから人文学に変えたところからの続きです。
留学といういわば今までに経験したことがない環境で自分が追い込まれると自ずとそこでの生活をどうにかしようと必死に考えるものです。今まで、私が39年間、留学コンサルタントとしてやってこられたのも、自らの留学経験という基本があったことが大きな要素になっていたと思います。
大学入学当初、授業が解らないということに対して、私は授業をテープに取り聞き返すという学生としての生き残り作戦を展開しました。
その経験をして、10代前半の若者たちも、自ら経験したことのない環境でどうにか生き残るために、無意識に知恵を絞るということを認識するに至りました。私のところに来る親子は、おおかれ少なかれ留学について不安を抱いています。それを自分の経験をもって払拭することがコンサルタントとして生き残れた大きな要素でしょう。
それを私は生きる力と呼んでいます。
それぞれの生徒は、究極の環境でなすすべもなく尻尾を巻いて逃げ出すなどと考えたことは一度もありません。生き残りをかけるからこそ、10代の留学は価値があると私は信じています。
自身の留学で学んだアメリカでの教育常識は、ボーディングスクール留学とかなりの共通点が見られました。
第一に成績のつけ方です。大学生活は3セメスター(1年半)と長くはありませんでしたが、アメリカでは、A、B、C、D、Fという5段階の成績評価が一般的です。日本の評価に直せば、Aが5、Fが1です。しかしながら、日本の中等教育と違って、アメリカでは小学校から大学まで絶対評価です。すなわち、クラスの全員がAであってもいいのです。ゆえに、平均点としては、CではなくBであり、Aを取れて当たり前で、Cは日本的に言えば2であり好ましくない成績です。
また、成績を決める要素も中間試験、期末試験が定着してはいなく、授業への取り組み、課題の出来具合も総合的に加味されることも学びました。
英語力で大いにハンディがあり授業を録音して、試験に臨むときには、何度も聞き返すという私の努力を、教授たちが評価してくれたからこそ、私はアメリカの大学で生き残れました。
私の生きる力を教授たちは認めてくれたと思っています。
その精神は、ボーディングスクールでも全く変わりません。
つづく
日曜コラム-♯7 自己を追求する2019-12-15
<木曜日のブログに続きます>
中学校時代、私に強烈な英語学習のインパクトを与えてくれた田中先生の思い出からアメリカ留学時代に戻ります。
英語の先生に成りたかった私は、英語をコミュニケーションの道具として使うことに長けなければいけないとして留学しましたが、最初の英語学校で私が入ったクラスでのヨーロッパと南米の生徒の英語力に衝撃を受けてから数か月、サンフランシスコ郊外の短大で学校生活を送ることになります。
入学当初の専攻はコミュニケーションでした。その理由は、現地で知り合った日本人留学生N君がその専攻であったからです。
彼は、お父さんが国際線のパイロット、お母さんが国際線のフライトアテンダント(当時はスチュワーデスと言っていました)でした。とてもフレンドリーで、自らがニューヨークで小学校時代を過ごしたいわゆる帰国子女で、英語でのコミュニケーションには問題なかったのですが、なぜか、N君は自分で留学手続きをせずに、私と同じ留学コンサルタントを通じてサンフランシスコまでやってきていたのです。私は留学先のサンフランシスコで偶然に彼と出会うという幸運に恵まれました。
二人して共通の話題といえばお世話になった留学コンサルタントさんです。その方は現在、アメリカ在住でおそらくビリオネアでしょう。とてもユニークな人でした。当時、N君と私は、会う度にその人の批評で盛り上がっていたのですが、まさか私が留学を終えて、その人の会社でコンサルタントして働くとは当時夢にも思っていませんでした。
さて、コミュニケーションという専攻で履修科目を決めて授業を受けてみると、オーラル(口頭)によるコミュニケーションが主体であることが解りました。授業は対話技術や口頭伝達技術を磨くもので占められていたので、将来、英語を教えることを夢にしていた私には、オーラルコミュニケーションよりも読み書きに重点を置くため、専攻をHumanities(人文学)に変えました。
私が取った授業は、哲学、ギリシャ神話、ヨーロッパ中世美術史、民俗学、英語101、ESL(ライティング、リーディング)でした。今、考えてみるとなんと無謀な履修でしょう。日本から多少英語ができる程度の学生が、コミュニティーカレッジとはいえ、いきなりネイティブでも敬遠するようなクラスを取ったのです。このクラス取りが出来たのもひとえに若さとしか言いようがありません。
当然、授業に出ても、さっぱりわからない。ところどころ聞き取れても、脈絡などつかめない。そこで私は各授業、最前列に座り、授業を録音するという、前例のないことをやります。先生に録音の許可を求めると、みな一様に驚きの表情ですが、その目は好意的視線でした。
つづく
中学校時代、私に強烈な英語学習のインパクトを与えてくれた田中先生の思い出からアメリカ留学時代に戻ります。
英語の先生に成りたかった私は、英語をコミュニケーションの道具として使うことに長けなければいけないとして留学しましたが、最初の英語学校で私が入ったクラスでのヨーロッパと南米の生徒の英語力に衝撃を受けてから数か月、サンフランシスコ郊外の短大で学校生活を送ることになります。
入学当初の専攻はコミュニケーションでした。その理由は、現地で知り合った日本人留学生N君がその専攻であったからです。
彼は、お父さんが国際線のパイロット、お母さんが国際線のフライトアテンダント(当時はスチュワーデスと言っていました)でした。とてもフレンドリーで、自らがニューヨークで小学校時代を過ごしたいわゆる帰国子女で、英語でのコミュニケーションには問題なかったのですが、なぜか、N君は自分で留学手続きをせずに、私と同じ留学コンサルタントを通じてサンフランシスコまでやってきていたのです。私は留学先のサンフランシスコで偶然に彼と出会うという幸運に恵まれました。
二人して共通の話題といえばお世話になった留学コンサルタントさんです。その方は現在、アメリカ在住でおそらくビリオネアでしょう。とてもユニークな人でした。当時、N君と私は、会う度にその人の批評で盛り上がっていたのですが、まさか私が留学を終えて、その人の会社でコンサルタントして働くとは当時夢にも思っていませんでした。
さて、コミュニケーションという専攻で履修科目を決めて授業を受けてみると、オーラル(口頭)によるコミュニケーションが主体であることが解りました。授業は対話技術や口頭伝達技術を磨くもので占められていたので、将来、英語を教えることを夢にしていた私には、オーラルコミュニケーションよりも読み書きに重点を置くため、専攻をHumanities(人文学)に変えました。
私が取った授業は、哲学、ギリシャ神話、ヨーロッパ中世美術史、民俗学、英語101、ESL(ライティング、リーディング)でした。今、考えてみるとなんと無謀な履修でしょう。日本から多少英語ができる程度の学生が、コミュニティーカレッジとはいえ、いきなりネイティブでも敬遠するようなクラスを取ったのです。このクラス取りが出来たのもひとえに若さとしか言いようがありません。
当然、授業に出ても、さっぱりわからない。ところどころ聞き取れても、脈絡などつかめない。そこで私は各授業、最前列に座り、授業を録音するという、前例のないことをやります。先生に録音の許可を求めると、みな一様に驚きの表情ですが、その目は好意的視線でした。
つづく
♯6 ボーディングスクール留学-自己を追求する2019-12-12
<火曜日のブログに続きます>
自らの2年間の留学を振り返って、そこで得た経験をコンサルタントとして活かすことができて私は幸運だったと思います。1979年春ころに渡航し、1981年の暮れにサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを越えたマリン郡にあるCollege of MarinでAA(Associate in Arts) 、日本でいうところの準学士の単位を取り終えて1月に帰国し2月にはすでにカウンセリングを行っていました。
私の留学の動機は、英語の先生になるための英語力の習得でした。英語の先生なのに英語が話せないのはおかしいと思ったのです。その原点に私が中学2年生の時の英語の先生、田中先生がいます。
大学を卒業したての田中先生は、とても熱心に英語を教えてくれました。ボーディングスクールでいうところのQuiz(小テスト)も毎週どころか毎回やっていたように記憶しています。田中先生の熱意は、クラス一般にはあまり評判が良くありませんでしたが、私は先生の一所懸命さにこころを突き動かされ、先生の熱意に答えることこそが私の義務と思ったのです。
時まさに学生運動真っ只中です。先生は高田馬場がご自宅で、毎日、埼玉の東松山まで2時間かけて毎日通勤していらっしゃいました。馬場の駅に催涙弾による煙幕で涙が止まらなかったこともあったそうです。それでも、先生は休暇や公休を取ることもなく、英語を私たちに教え続けました。
ある日のクラスで、クラスメートの一人が役にたたない英語をどうして学ばなければならないかという問題提起をしました。先生は、全身全霊を込めて、「君たちが社会に出た時、きっと英語は役に立つから、今のうちにしっかりやるんだ。言葉は道具だ。それを使いこなせれば、君たちの世界は広がる」などと、ジェンダーフリーの言葉遣いで、右こぶしを固く握りしめ、熱く語ったのです。
その情熱に私は感化されたのでしょう。田中先生をして、私は先生という仕事にあこがれました。田中先生に英語を教わって以来、私は学年で英語だけはトップ3になりました。それが先生に対する授業への私の感謝の意を込めた意思表示だったのだと思います。
自らの留学を振り返って、私はアメリカの大学で、田中先生のような先生とたくさん出会いました。彼らを一言で言えば、学ぶこととそれを人に伝えることが好きな人たちでした。日本で経験した大学の先生とは違っていました。
つづく
自らの2年間の留学を振り返って、そこで得た経験をコンサルタントとして活かすことができて私は幸運だったと思います。1979年春ころに渡航し、1981年の暮れにサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを越えたマリン郡にあるCollege of MarinでAA(Associate in Arts) 、日本でいうところの準学士の単位を取り終えて1月に帰国し2月にはすでにカウンセリングを行っていました。
私の留学の動機は、英語の先生になるための英語力の習得でした。英語の先生なのに英語が話せないのはおかしいと思ったのです。その原点に私が中学2年生の時の英語の先生、田中先生がいます。
大学を卒業したての田中先生は、とても熱心に英語を教えてくれました。ボーディングスクールでいうところのQuiz(小テスト)も毎週どころか毎回やっていたように記憶しています。田中先生の熱意は、クラス一般にはあまり評判が良くありませんでしたが、私は先生の一所懸命さにこころを突き動かされ、先生の熱意に答えることこそが私の義務と思ったのです。
時まさに学生運動真っ只中です。先生は高田馬場がご自宅で、毎日、埼玉の東松山まで2時間かけて毎日通勤していらっしゃいました。馬場の駅に催涙弾による煙幕で涙が止まらなかったこともあったそうです。それでも、先生は休暇や公休を取ることもなく、英語を私たちに教え続けました。
ある日のクラスで、クラスメートの一人が役にたたない英語をどうして学ばなければならないかという問題提起をしました。先生は、全身全霊を込めて、「君たちが社会に出た時、きっと英語は役に立つから、今のうちにしっかりやるんだ。言葉は道具だ。それを使いこなせれば、君たちの世界は広がる」などと、ジェンダーフリーの言葉遣いで、右こぶしを固く握りしめ、熱く語ったのです。
その情熱に私は感化されたのでしょう。田中先生をして、私は先生という仕事にあこがれました。田中先生に英語を教わって以来、私は学年で英語だけはトップ3になりました。それが先生に対する授業への私の感謝の意を込めた意思表示だったのだと思います。
自らの留学を振り返って、私はアメリカの大学で、田中先生のような先生とたくさん出会いました。彼らを一言で言えば、学ぶこととそれを人に伝えることが好きな人たちでした。日本で経験した大学の先生とは違っていました。
つづく
♯5 ボーディングスクール留学-自己を追求する2019-12-10
先週火曜日のブログで私自身の留学体験から勉強時間の捉え方の違いを述べましたが、木曜日のブログではその続きといえる内容にはなっていませんでした。お詫び申し上げます。
改めて火曜日のブログの続きを述べさせていただきます。
なぜ、私が最初に入学したサンフランシスコにある小さな語学学校の先生は、(一日に)5時間勉強する必要はないと言ったのか、そしてその考え方がボーディングスクールの教育となぜ一致しているのか、3日、火曜日のブログでは、生徒の好奇心を刺激し自ら学ぶことに重きを置くボーディングスクール教育に対して、暗記教育がまだ主流の日本の中等教育がゆえに時間の使い方が違うということが私の言いたかったことでした。
さて、自身の留学の初期の状況で恐縮なのですが、5時間勉強する必要はないという先生の発言ともう一つ驚いたのは、私以外のヨーロッパと南米の生徒たちが驚く程英語が出来たことでした。
20ページほどの短編小説を40分くらいで読んで理解し、コメントできる彼らを目の当たりにして私は衝撃を受けました。20代なかばという年齢はみなおおよそ同じでした。オーラルコミュニケーションにおいてもそれほど、私と彼らの差は極端ではありませんでした。しかし、読解力となると将に月とすっぽんでした。
そのショックが私をして5時間勉強しなくてはと言わしめたのかもしれません。しかし、冷静に自分の2年間の留学生活を振り返ると、毎日コンスタントに5時間も集中して熱心に勉強するほど、私は勤勉ではりませんでした。もちろん、2年間の留学生活では、宿題を徹夜で仕上げたことや、熱心にニュース番組を理解しようと集中したことはあります。しかし、それでも毎日5時間というわけではありませんでした。
それでも結局、2年間、一度も帰国することもなく、楽しい思い出をたくさん日本に持ち帰るだけでなく、留学経験を活かせる仕事に39年間従事できたのは、留学が自分にとって、とても魅力的であったことに他なりません。
つづく
改めて火曜日のブログの続きを述べさせていただきます。
なぜ、私が最初に入学したサンフランシスコにある小さな語学学校の先生は、(一日に)5時間勉強する必要はないと言ったのか、そしてその考え方がボーディングスクールの教育となぜ一致しているのか、3日、火曜日のブログでは、生徒の好奇心を刺激し自ら学ぶことに重きを置くボーディングスクール教育に対して、暗記教育がまだ主流の日本の中等教育がゆえに時間の使い方が違うということが私の言いたかったことでした。
さて、自身の留学の初期の状況で恐縮なのですが、5時間勉強する必要はないという先生の発言ともう一つ驚いたのは、私以外のヨーロッパと南米の生徒たちが驚く程英語が出来たことでした。
20ページほどの短編小説を40分くらいで読んで理解し、コメントできる彼らを目の当たりにして私は衝撃を受けました。20代なかばという年齢はみなおおよそ同じでした。オーラルコミュニケーションにおいてもそれほど、私と彼らの差は極端ではありませんでした。しかし、読解力となると将に月とすっぽんでした。
そのショックが私をして5時間勉強しなくてはと言わしめたのかもしれません。しかし、冷静に自分の2年間の留学生活を振り返ると、毎日コンスタントに5時間も集中して熱心に勉強するほど、私は勤勉ではりませんでした。もちろん、2年間の留学生活では、宿題を徹夜で仕上げたことや、熱心にニュース番組を理解しようと集中したことはあります。しかし、それでも毎日5時間というわけではありませんでした。
それでも結局、2年間、一度も帰国することもなく、楽しい思い出をたくさん日本に持ち帰るだけでなく、留学経験を活かせる仕事に39年間従事できたのは、留学が自分にとって、とても魅力的であったことに他なりません。
つづく
日曜コラム-褒めてください2019-12-08
褒めるということは教育の基本であると思います
私が39年間、ボーディングスクールのコンサルタントとしてやってこられたのも
褒めるということが基本にあったからです
幸いなことに、自身の教育に関する基本方針と英語圏の学校、特に
ボーディングスクールと呼ばれている寮生活を
中心とした学校においては同じでした
褒めるということが、重視されるようになったのは、近年であるように思います
ボーディングスクールの歴史をたどってみると
シェークスピアが活躍したころがその始まりではないかと思いますが
その当時の学校は、日本と同じ寺子屋式であり、とにかく覚えること
生徒は与えられた量をこなし、終わらなければ自宅に持ち帰り
翌日、学校でチェックされることの繰り返しだったようです
したがって、学校に行くときのこころは重く、家に帰る時のこころは軽やか
その巧い表現がシェークスピアの戯曲のなかにあったように記憶しています
今から半世紀くらい前まで、アメリカのボーディングスクールといえば
子どもたちにとって監獄のようなイメージがあったようです
「そんなことをすると、『ボーディングスクール』に入れるよ」というのが
子どもをしかる時の常套句だったと、複数のボーディングスクールスタッフが
フェアー、あるいは親を迎えての学校でのレセプションで
語っていたことを思い出します
時代はドラスティックに変わりました
そして、ボーディングスクールもおおいに変化しました
50年前に比べて、中等教育の時代からいろいろな場面で選択が求められ
その自由と使い方は好むと好まざるとにかかわらず、子どもたちに任される
ようになっていると思います
大人の側が望む選択肢を子どもに強制するのが
いわば旧来型の教育にはあると思いますが、新時代の教育においては
学校という枠のなかでは生徒に強制ができても、そこを離れれば
膨大な自由のなかでの選択を生徒は自ら行わなければなりません
無理を強いて結果を出すことが出来ても、結果が終われば何がのこるでしょうか
教育とは本来、生涯に渡って行われるべきではないかと思います
すなわち、学ぶということを私が忘れてしまったらその人生は果たして
満足できるものになるでしょうか
褒めて伸ばすことの実践を私は生涯続けます
私が39年間、ボーディングスクールのコンサルタントとしてやってこられたのも
褒めるということが基本にあったからです
幸いなことに、自身の教育に関する基本方針と英語圏の学校、特に
ボーディングスクールと呼ばれている寮生活を
中心とした学校においては同じでした
褒めるということが、重視されるようになったのは、近年であるように思います
ボーディングスクールの歴史をたどってみると
シェークスピアが活躍したころがその始まりではないかと思いますが
その当時の学校は、日本と同じ寺子屋式であり、とにかく覚えること
生徒は与えられた量をこなし、終わらなければ自宅に持ち帰り
翌日、学校でチェックされることの繰り返しだったようです
したがって、学校に行くときのこころは重く、家に帰る時のこころは軽やか
その巧い表現がシェークスピアの戯曲のなかにあったように記憶しています
今から半世紀くらい前まで、アメリカのボーディングスクールといえば
子どもたちにとって監獄のようなイメージがあったようです
「そんなことをすると、『ボーディングスクール』に入れるよ」というのが
子どもをしかる時の常套句だったと、複数のボーディングスクールスタッフが
フェアー、あるいは親を迎えての学校でのレセプションで
語っていたことを思い出します
時代はドラスティックに変わりました
そして、ボーディングスクールもおおいに変化しました
50年前に比べて、中等教育の時代からいろいろな場面で選択が求められ
その自由と使い方は好むと好まざるとにかかわらず、子どもたちに任される
ようになっていると思います
大人の側が望む選択肢を子どもに強制するのが
いわば旧来型の教育にはあると思いますが、新時代の教育においては
学校という枠のなかでは生徒に強制ができても、そこを離れれば
膨大な自由のなかでの選択を生徒は自ら行わなければなりません
無理を強いて結果を出すことが出来ても、結果が終われば何がのこるでしょうか
教育とは本来、生涯に渡って行われるべきではないかと思います
すなわち、学ぶということを私が忘れてしまったらその人生は果たして
満足できるものになるでしょうか
褒めて伸ばすことの実践を私は生涯続けます